リンカーンとケネディの驚くべき偶然の一致!

シンクロニシティは、時としてパラレル・ライフというかたちで現象化する。パラレル・ライフというのは、別々の人間が人生のいろいろな局面できわめて似たような体験をする、ということである。パラレル・ライフ現象で最も有名なのは、南北戦争後に大統領になったアブラハム・リンカーンと、アポロ計画を推進したジョン・F・ケネディだろう。およそ100年の歳月をもってへだたる二人の暗殺だが、このあいだにはじつに奇妙な一致がみられるのだ。

リンカーンとケネディの間には100年という数字のジソクスがある。リンカーンが下院議員になったのが1847年、ケネディが下院議員になったのがその100年後の1947年。また、二人とも副大統領候補としてあと一歩のところまでいった経験を持っている。1856年と1956年の大統領選でのことである。そして二人が大統領となったのが、リンカーンが1860年、ケネディが1960年と、これまたぴったり100年の差がある。

選挙期間中に、斬新なかたちの公開討論会を行なったという点でも一致している。二人ともイリノイ州の投票結果で決着がついて僅差で当選し、政権の一番の課題となったのは黒人の人権問題だった。そして、リンカーンが奴隷解放を達成したのが1863年、ケネディが公民権について下院で演説をしたのが、1963年。ここにも100年の差がある。

リンカーンが暗殺された現場はフォード劇場で、ケネディはフォード社製のリンカーンに乗っていた時に狙撃された。二人とも、後頭部から入った銃弾による致命傷で命を落としている。ケネディ大統領の暗殺については"魔法の弾丸"と称して、撃たれた弾丸の方向に問題があり、単独犯説と共犯説が取り沙汰されたが、実はリンカーン大統領の場合も同様に銃弾の方向が問題で、単独犯説と共犯説の両方が囁かれていたのだ。

銃弾が撃ち込まれたとき、リンカーン大統領もケネディ大統領も夫人がすぐ隣に座っていたが、いずれも怪我はなかった。どちらの夫人も名家の出身で、フランス語を流暢に話し、24歳のとき夫と結婚し、三人の子供をもうけた。そして、どちらも夫の大統領在任中にその三人の子供のうちのひとりを、ホワイトハウスでの落馬事故で失っているということまで一致しているのだ。

また、二人の大統領の暗殺現場には、それぞれもうひと組のカップルがいた。ケネデイ大統領の場合はジョン・コナリー、テキサス州知事夫妻、リンカーン大統領の場合は、ヘンリー・リード・ラスボーン少佐とそのフィアンセである。そして、いずれも襲撃によって男のほうが負傷している。

さらに、二人の後任大統領には、どちらもジョンソンという名前の南部出身者が選ばれている。リンカーンのあとのアンドリュー・ジョンソンは1808年生まれ、ケネディのあとのリンドン・ジョンソンは1908年生まれで、100年差のジソクスはここでも見られる。また、リンカーン大統領の従兄弟はボストン市長を7期務めていたし、ケネディ大統領の祖父は5期続けてボストン市長を務めたという共通点もある。

二人の犯行と逮捕の状況も非常に興味深い。リー・ハーヴェイ・オズワルドは倉庫からケネディ大統領を狙撃したあと、テキサス劇場に逃げ込んだところを逮捕された。一方、ジョン・ウィルクス・ブースはその逆のバターンで、フォード劇場でリンカーン大統領を射殺して逃げたあと、タバコ会杜の倉庫で捕まった。

しかも、二人の暗殺者は、それぞれ裁判を受ける前に別の人間によって殺害されているという点も一致している。すなわち、オズワルドはジャック・ルビーによって腹部を撃たれ、ブースはボストン・コーベットによって頭部を撃たれて殺された。

アメリカ大統領にかかるゼロの呪い

この二人の大統領の話だけで十分に驚愕に値するのだが、なんと驚くべきことに、アメリカ合衆国の大統領には"ゼロの呪い"がかけられていて、末尾が0の年の選挙で選ばれた大統領は(アメリカ大統領選挙は4年に1度定期的に行われる。ようするに末尾が0の年の大統領選は20年周期ということ)、暗殺されたり、病気に見舞われたりして、在職中に必ず死亡するというのだ。

そもそもこの話は、1812年の米英戦争のとき、白人に虐げられていたインディアン、ショーニー族のまじない師オグルナチュクが、当時米軍を率いていたハリソン将軍に「ゼロのつく年に大統領になった人物は、必ずその在職中に死んでしまうだろう。これから先、ゼロ年の大統領はみんな、同じ運命をたどることになるのだ!」と予言したことに始まると言われている。

大統領となったハリソンがホワイトハウスにいられたのは、たった一力月間だけだった。当選直後から体調を崩し、それがもとでこの世を去ってしまったのだ。1841年4月4日、ハりソンは在職中に命を落とした最初の大統領となった。こうして"ゼロの呪い"が始まった。

1860年に大統領となったアブラハム・リンカーンは5年後に暗殺された。1880年当選のジェームス・ガーフィールドは、母校の25周年同窓会に出席した際、政治的論功行賞をめぐって対立していた弁護士の凶弾に倒れている。1900年に再選されたウィリアム・マッキンリーは、ニューヨーク州バッファローで開かれたパンアメリカン博覧会会場で、ユートピア無政府主義者によって殺害されている。

また1920年に大統領となったウォーレン・ハーディングは三年後に心臓発作で病死し、1940年に三期目の当選を勝ち取ったフランクリン・ルーズベルトは、第2次世界大戦末の1945年、日本攻撃に対するソ違の支持を取りつけて帰米、ポリオで衰弱した体に鞭打ちながら、サンフランシスコで行う演説の草稿をチェックしているうちに脳溢血で倒れ、死去。

1960年に大統領となったケネディは、前述したようにテキサス州ダラスで頭に銃撃を受けて死亡。そして1980年のレーガンは狙撃され、銃弾が心臓をかすめるという恐怖を味わっている。レーガン大統領が命を取り留めたことにより、"ゼロの呪い"は終わったとする見方もある。

ケネディ暗殺事件の関係者がすべて登場する場所

オーストラリアのシドニーに、ギルフォードという古い町がある。この町の一角に、意図して名づけたとしか思えない3本の通りがある。ケネディ、オズワルド、ルビーという3本の通りが交差する場所があるのだ。これらの名前は、前から順にアメリカ大統領とその暗殺犯、そして暗殺犯を殺した人物の名前と一致している。しかし、そのギルフオードの町並みが完成したのは110年ほど前で、いちばん新しい建物でも築60年くらいは経過しているので、3本の通りの名前は、ケネディ大統領暗殺事件よりもはるか前につけられていたことになる。オズワルドに暗殺されたケネディ、そのオズワルドを銃殺したルビーの名前を冠した通りが同じ町のなかにあるとは、まさしく奇妙な出来事というしかない。

リンカーンは、意味のある偶然の一致を信じていた!?

リンカーンに関するシンクロニシティには、もうひとつ有名な話がある。リンカーンは、青年のころ、きわめて困った葛藤状況にあった。リンカーンには、世界には、彼が為すべき、意味のある仕事が存在していることが暗にわかっていた。

しかし、リンカーンは、その仕事をするには、自分の知性をみがくことと、専門的な技術を身に着けることが必要であることも認識していた。これらの主観的な感じと戦うなかで、リンカーンの置かれたフロンティアの環境にあっては、専門的な研究のための知的な道具を見つけることは非常に困難であるという事実があった。リンカーンが、自分の願いはけっしてかなえられないだろうと信じたとしても、もっともであった。

ある日、リンカーンのところに大きな樽を抱えた見知らぬ男がやってきた。「すまないけど、この樽を買ってくれないかね」。リンカーンが樽のなかを見ると、たいして値打ちのありそうなものは見当たらず、古新聞や古雑誌が詰まっているようだった。「ねえ、頼むよ。私は金に困ってるんだ…1ドルだっていいんだよ」。「いいよ。そこに置いていってくれ」。 リンカーンは、親切な性格だったので、その中味が何かに使えるとは考えられなかったにもかかわらず、樽と引き替えにその男に1ドル渡した。

リンカーンは、しぱらくたって、その樽を整理しようとしたとき、その樽には、ブラックストーンの「法律釈義」の全集がほとんど入っていることに気づいた。そしてそのことが、のちに政治で身を立てるきっかけとなり、やがてはアメリカの大統領にまで至ったのである。

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